一葉社通信
根ずみの眼
根にすみ、根をみつめ、根へおもう
第11回
美術展と魯迅と絶望とあっかんべー!!
和田悌二
「これ、あれじゃない?」
同行した友人から言われ、どこかで見たことがあるとは思ったが、確かに、これは、あれかも……しかし、まさか、ここで出くわすとは……
「ここ」とは横浜美術館で開催されていた「第8回 横浜トリエンナーレ」(3/15~6/9開催)。「これ」は「げんぱつ あっかんべー!!」のイラストで、「あれ」は女川原発の近くに阿部宗悦さんたち女川原発反対同盟が1992年に建てた「止めよう原発!子どもたちの未来のために」の大看板の中心にあるそのイラストのこと(阿部美紀子編『原発のまち 50年のかお』一葉社刊参照)。それにしても、どうして、ここに……?
■トリエンナーレに出向いた3つの理由
これまで「トリエンナーレ」や「ビエンナーレ」には縁がなかった。避けていたのかもしれない。「3年に1度」や「2年に1度」というその言葉をことさら前面に出すこと自体に、「4年に1度」のオリンピック同様の胡散臭さを感じていた。結局は資本の論理にどっぷり浸かった、その地の生活者を疎んじながらも利用する(まち興し)イベントにすぎないものを、「国際芸術祭」(トリエンナーレにもビエンナーレにもその意味はないのだが)のニュアンスを醸し出しながら、「○年に一度」といかにも勿体ぶって権威づけるところが、受け付けなかったのである。
では、今回、なぜ出向いたのか。理由は3つ。
まず、友人から招待券が送られてきたのだが、その友人の姉・萩原弘子さんが、この企画に深く関わっていたこと。
彼女は芸術思想史の研究者で、特に黒人や被植民者、被抑圧者など少数者の抵抗美術・文化を専門とし、その先駆的な著書や根源的で縛られない「ものの見方」には、これまで何度も蒙を啓かれてきた。
二つ目が、その萩原さんとも深い交流のあった美術家・富山妙子さん(1921-2021)の特設コーナーが設置されていたこと。
富山妙子さんについては、ここではとても語り尽くせないので、ぜひネットか何かで見ていただきたい。その作品は、炭鉱から始まって南米等の第三世界、韓国の民主化運動、日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度、天皇を筆頭とした戦争責任、フェミニズムやジェンダーなど、切り捨てられた(ている)対象を題材に、創作拠点の「火種工房」の名称そのままに、一貫して世界や日本や社会の「火種」を拾い上げ、消させまいとしたものばかりである(一葉社刊『周縁からの波』の装画は富山さんの作品)。
故に、これまで日本の公的な美術館や展覧会では、ほとんど展示されることがなかった。その富山さんの作品を、専用コーナーまで作って特別展示しているという。これは、富山さんの最後の本(『アジアを抱く――画家人生 記憶と夢』岩波書店)を編集し、死後も「反ナラティヴ(物語)性」や「非作家性」といった反資本の斬新な観点から富山さんを論じている萩原弘子さんの企てであろう。
そして、なんといっても、このトリエンナーレの題名が「野草:いま、ここで生きてる」であったこと。
「野草」と聞いて、すぐに魯迅の散文詩集『野草』を連想したからである。このトリエンナーレの企画を担う二人のディレクターがどちらも中国の方であるところも、強く魯迅との繋がりを思い起こさせた。
魯迅は、いうまでもなく中国近代文学史上、最も傑出した文学者である。『野草』は、その魯迅に日本で最も造詣の深い竹内好によれば、「芸術的完成さでは魯迅のあらゆる作品中で第一位を占める」(『魯迅入門』)とのこと。とは言っても、難解である。難解で、光が見えず、きつい。
私事だが、10代後半、とことん打ちのめされて出口が全く見えなくなった時がある。絶望と、自己嫌悪・自己否定と、死に取り憑かれる毎日だった。そんなとき、いわば本能的に竹内好訳の岩波文庫『野草』を手にとった。読み取りにくく不可解で、明るさ(希望)がなく、手厳しく、自己を含めた人間に容赦ないが、読後、不思議に救われた記憶がある。わたしにとって『野草』は、どこか叙情的な感じを抱かせる散文詩というよりは、絶望と自己否定(贖罪感)と死を真正面から綴った呪術書の感がある。呪術は、人を救う。
実は、魯迅は美術とも深いつながりを持つ。『野草』の竹内好の「解説」にもこうある。「魯迅は、晩年になるに従って美術への関心が深まり、版画運動を起こすようになる。中国の今日の木版画は、魯迅に始まると称しても差し支えない」と。
■からだ中をざわつかせる作品ばかり
ということで、去る5月14日、横浜トリエンナーレ主会場の横浜美術館に向かった。館内に入ってまず感じたのは、雑然、混沌、異音、騒音……「トリエンナーレ」や「アート」の語感からは程遠い、おしゃれ感のなさである。この瞬間、期待がいや増した。
無作為に入った最初の部屋で、それは裏打ちされた。そこでは、ワルシャワのおそらく中心街での反移民(ヘイト)デモ隊と、それへのカウンターであろうデモ隊と、警官隊との三すくみの衝突の映像が流れていた。その映像は、そのままの映像で、何か手が加えられた(人工的=アート)というものでは全くなかった。ただ、カメラの視点は目まぐるしく移動していた。ヘイトデモ側から、それへの抗議デモ側から、そして歩道の傍観者側から、ときには道路沿いのカフェの店内やアパートの窓から、といった具合に。しかし、警官隊側からの視点はなかった。
かつて「ベトナム反戦」などの学生・労働者運動盛んなりしころの日本でのニュース映像では、そのほとんどが機動隊側(安全地帯)からだったのとは真逆に。機動隊側から撮影した、ジグザグデモや投石やゲバ棒を振るう学生・労働者たちの映像がひたすら流されることによって、「暴力学生・労働者」の一方的なイメージがお茶の間に定着し、「殺すな!」の運動は人々から切り離された。まさに、マクルーハンの言う「視ること」は「殺すこと」である。
作者の視点の意図につられるかのように、映像内の各人の生の表情――ヘイト側の攻撃性や憑依性、カウンター側の切迫感ややりきれなさ、警官隊の無表情の冷たさ、そして傍観者の嘲笑や残忍さ、顰蹙さ等に思わず惹きつけられて、説明板も読まず、しばらく凝視してしまった。スロバキアのトマス・ラファの作品であることは、視聴後にわかった。
この壁掛け映像の真下には、上部の映像の必然的な答えでもあるかのように、透明のビニル袋に封じ込められた人間の木像が横たわっていた。排斥され、疎外され、押しつぶされ、踏み潰されて、ついには窒息せざるを得なかった人間たちの象徴=実はわたしたちそのもの、でもあるかのように。この作者ジョシュ・クラインの同様の木像は、会場のあちこちに無造作に置かれ、否、ころがっていた。
そこからすぐ近くの小部屋では、英国人のジェレミー・デラーによる、イギリスの炭鉱夫たちのかつての大争議の模様の再現フィルムが流れていた。家族を巻き込んだ大勢の労働者の直接行動と、それを鎮圧しようとした資本側とその走狗となった警察の騎馬隊との衝突を、当時の労働者や家族たち自身が出演して、まるでスペクタル映画のように再現した映像である。途中途中で、その当事者たちの証言フィルムも入ってくるが、これも余計な小手先芸(アート)は、おそらく意図的にであろう、排している。正攻法な俯瞰と接写、鳥瞰と虫瞰の映像が混じり合いながら、大方は時間軸に沿って展開し、ドキュメントとドラマの間(あわい)を超えて淡々と流れていく。なのにというべきか、だからというべきか、いわば闘争や運動が発する直截的な生の迸りと迫力がより純然と感じられて、見入ってしまう。
米国のジョナサン・ホロヴィッツは、1文字ずつアルファベットの入った文字盤を各人に持たせ、並ばせている写真を展示していた。続けて読むと「IMMIGRANTS ARE ESSENTIAL(移民は必要不可欠です)」となる。この場合の「必要不可欠」は、日本のように安い労働力や過酷な労働の埋め合わせとしての「人材」(イヤな言葉)の意味からではない。エスニック料理の「エスニック」と倫理の「エシックス」が同じ語源からきているように、異質な者(遠くの他者)に想いを馳せることが本来の「倫理」であり、その異質な存在こそが人間が生きていくうえで「必要不可欠」な者であると訴えているのであろう。なぜなら、人はすべて、たとえ血縁の家族といえども、一人ひとり皆、異質な存在なのであるから。「IMMIGRANTS ARE ESSENTIAL」を各人が1文字ずつ持つことで、それを表しているように見える。
ノルウェーのヨアル・ナンゴは、「ホームレス」という言葉を無化し、無意味にしてくれた。ナンゴが展示した、いわゆる「ホーム」(彼は「私的図書館」と称している)は、廃棄物の布や木材で形作られており、そこに本や衣服や布団、家具(これも廃材)までが雑然と散らばっている。一見すれば、「ホームレス」の住空間である。しかし、一旦そこに足を踏み入れると、変な落ち着き感や安心感が与えられ、読書にうってつけの、まさに「ホーム」に戻ってきた感じになる。「ホームレス」という言葉は、実は一般的な「家」の所持によるつまらない優越性の概念からきた差別語であり、たかが「家」がないぐらいで「ホームレス」と言われる所以は全くない。「家」がなくてダンボールハウスに住もうと、河川敷や駅等の地下街に住もうと、そこは彼女ら彼らにとってはそれぞれの立派な「ホーム」である、と改めて痛感させられた。
富山妙子さんの特設コーナーの題名は、「わたしの解放」。これは、1972年に筑摩書房から刊行された富山さんの著書名と同じである。この書には「辺境と底辺の旅」という副題もついているが、展示されていたほとんどの作品は、辺境と底辺に目を向けて自己の意識を変革しなければ「わたし」をはじめとした人間の真の解放はないという、まさにこの書名が導くような富山さんならではの展観だった。残念なのは、公立美術館の限界なのか、天皇の戦争責任や日本軍性奴隷制度についての作品が全く展示されていなかったことである。
そのほかにも、一葉社の寒中見舞いで、亡き大道寺将司さんの俳句に添えた版画の作者・小野忠重の作品や、労働者を描いたムンクの画風を連想させる中国の故ジャオ・ウェンリアンの一連のタブロー、そして魯迅自身の木版画など、見ごたえというよりは、からだ中をざわつかせ刺激する作品ばかりであった。
■「政治的」? 何が悪い!
そして、ほとんど見終わって下の階に行こうとしたとき、冒頭の「これ、あれじゃない?」が同行者から発せられたのである。
「これ」=「あっかんべー!!」のイラストは、回廊のようなところにずらっと展示されていた志賀理江子さんの一連の大型写真パネルの最後の1枚に、5点の小さな写真とともにその真ん中に貼り付けられていた。その大きな写真パネルは、奥に軽トラックが止まっていて、まるで廃棄物処理場のような荒廃した風景である。〈あの夜のつながるところ〉の作品名が示すように、おそらくあの大震災後の女川のどこかの風景であろう。これが、見事に、この雑然・混沌とした展覧会と混じり合い、特にその「あっかんべー!!」の小さなイラストによって「美術作品」としての存在感を醸し出していたのである。まるで、最後の締め、大トリでもあるかのように。
でも、なぜここに……
それは、あっけなく判明した。その写真パネルのそばの階段から降りたところに、「日々を生きるための手引書」と称するグランドギャラリーが設置されていた。そこの志賀さんのコーナーに、女川原発反対のミニコミ紙『鳴り砂』創刊号と2023年5月20日号の2冊とともに、『原発のまち 50年のかお』も置かれていたからである。その写真集の該当ページを開くと、志賀さん撮影の「あっかんべー!!」のイラストが入った大看板の紙焼き写真が挟まっていた。「げんぱつ あっかんべー!!」という明確なメッセージがこもったこの何気ない紙焼きこそが「アート」の本源ですよ、と言わんばかりに。
ある新聞で、著名な美術評論家が、このトリエンナーレを総括して、この美術展は教条的性格の印象大で、まるでプロパガンダだが、魯迅の『野草』に倣って言えば、プロパガンダは虚妄である、と評していた。おそらく、自民党や文科省などが目くじらを立てるのと同様の意味での、いわゆる「政治的」であることをもって、「教条的」とか「プロパガンダ」と評しているのであろう。
しかし、「いま、ここで日々を生きる」うえで「政治的」でないものなど、果たしてあるのだろうか。否、である。ここでの展示作品のほとんどが証明しているように、生きていくことは、呼吸することも含めて、すべて「政治的」であるし「政治的」にならざるを得ない。この展覧会の必然的で当たり前の「政治的」な作品をもって、「政治的」だから「教条的」と短絡的に決めつける方が、よほど「教条的」である。ましてや、プロパガンダのどこが悪いのか。表現は、すべからく「訴え」であるのだから、美術という表現作品においても、プロパガンダ、大いに結構ではないか。問題は、プロパガンダという言葉自体ではなく、あくまでもその目的、中身ではないのか。プロパガンダと美術は相入れないと決めつけることこそ、これもまさに教条的である。
この「横浜トリエンナーレ」は、この評論家ばかりではなく、評価がもう一つのようである。実は、このような公的大型美術展では稀有(おそらく初めて)なことに、展覧会に付き物の図録がない。会期中に間に合わなかったばかりではなく、今もまだ出来上がっていないようである。参加した作者が多岐にわたっていて、作品の権利関係等も不明なことが多く、すべての関係者の許諾を得るのに時間がかかっているらしい。これは、逆に言えば、それだけ彼女ら彼らの作品は垢がついていないということでもある。余計な権威や資本に汚されてなく、作品が固定した価値観から自由で自立しているということでもある。図録がないことが、図録を下敷きに評しがちな評論家から不評をかこっている理由の一つかもしれない。
いずれにせよ、評論家の大方の評に反して、わたしは魯迅に因む題名(テーマ)に叶った意義深い展観と、心底から思っている。
■「絶望は虚妄だ」に想いを致す
最後に、先の評論家の「虚妄」について。これは、『野草』の中の「希望」という項目に引用されているハンガリーの詩人の言葉「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じ」から、あえて「虚妄」という言葉を出しているのだが、使い方は全く間違っている。
2年ほど前、朝日新聞で澤地久枝が「希望を持たないのは怠惰です。(自分の辞書から)絶望という言葉は削ってしまいたい」と発言し、その欄担当の朝日の記者が後日譚に、自分は希望をなくしていたのでこの言葉が心に残った、というようなことを書いていた。魯迅の引く「絶望は虚妄だ、希望がそうであるように」というのは、この記者程度のことを言っているのではない。次元が全く違う。
例えば、ガザの今の状況下にある人びとにも、澤地は「希望を持たないのは怠惰です」などと言えるのか。そこにはほんとうの絶望しかない。希望と同様な、虚妄な絶望などないのである。しかし、だからこそ、そこまで真に絶望的な状況に追いやられているからこそ、絶望は希望と同様に虚妄だ、と発せざるを得ない人びとの土壇場の心情に、同じ人間として全身全霊で想いを致すべきである。いまのガザを想えばわかるように、「絶望は虚妄だ!」は痛憤、痛哭のぎりぎりのうめきである。「プロパガンダは虚妄だ」などと軽薄に使うべきではない。
では、虚妄ではないものとは、なんだろう。それこそが、このトリエンナーレのテーマ「いま、ここで生きている」ではないか。そう、毎日を生きること。死ぬまで生き続けること。希望や絶望を無理にでものみ込んで、日々ここで(どこででも)野草のように生きること。それこそが虚妄ではない、まっとうな実(じつ)ではないか。先に、魯迅の『野草』で救われたと書いたのは、まずとにかく日々生き続けること、どこであろうともそこで生きてあることこそが本然であることを、読みながら漠然と感じ取ったからであろう。
その意味で、この「横浜トリエンナーレ」は、まさに魯迅の諸作品のように、この世界の圧倒的な絶望状況の中でも、その絶望をそのまま丸かじりしたり、逆手に取って絶望の関節を外したり、時には押しつぶされても「あっかんべー!!」を発したりしながら、それでも「いま、ここで生きている」と宣するような、真の意味でラディカル(根源的)で、反逆心溢れた奇跡的な「国際美術展」であった、と強く思う。
野草は、その根、深からず、花と葉、美しからず、しかも、露を吸い、水を吸い、ふりた死人の血と肉を吸い、おのがじし、その生存を奪い取る。生存に当っても、踏みにじられ、刈り荒らされ、ついに死滅と腐朽にいたる。
だが私は、心うれえず、心たのしい。高らかに笑い、歌をうたおう。
私は、私の野草を愛する。だが、この野草をもって装飾とする地を憎む。
(『野草』巻頭の「題辞」より/竹内好訳・岩波文庫)
*文中にあるように、図録が未完成のため、作品や作家に多少の思い違いがあるかもしれません。
(『プチの大通り』137<2024年7月20日>号/「反日を考える会・宮城」発行に掲載)
「寒中見舞い」です。
東京琉球館主催「一葉社トーク」(第3期その1)が終了しました。
『原発のまち 50年のかお』――徒手空拳で今に抗うために
おかげさまで満席でした。
ご参加くださった皆さま、本当にありがとうございました!
この時代、和田悌二の言葉が心に響きとどまり、
そして広がることを願っております。
参加者の乾喜美子さんがFacebookで紹介してくださいました。
ありがとうございます。
https://www.facebook.com/kimiko.inui.9/?locale=ja_JP
第10回
「志縁」という思想
大道万里子
長野県佐久市に開設した思想運動の交流拠点「志縁の苑」(撮影:河原千春)
■まわりまわってたどり着いた縁
「もろさわようこ」――この名前に反応する方はどのくらいいるのだろう。
ある年代の人にとっては、胸がキュンとする名前である。かく言う私もその一人。
学生時代、もろさわさんの『信濃のおんな』『おんなの戦後史』などを読み、地に足のついた女性史に惹かれた。20代の私にもろさわさんの言葉が入り込み、感じ入った。
そして、これらの本を刊行する出版社に就職したい!と思って直談判することにした。新卒など募集していなかったから、行くしかなかった。
突然訪ねてきた学生を松本昌次さんという編集長が迎えてくれた。何かいろいろ話してくださったのだが、あがってしまって覚えていない。ただ覚えているのは、「編集者になんてならなくていいよ」いや、ならない方がいいよ?だったか。意味がわからずそそくさと退散した。
ご自身が編集者であるのになぜ編集者になるなというのか、不思議だった。なってみなければわからないと思い、その後も編集アルバイトやいくつかの小さな出版社に入ったり、フリーになったりして、1986年、学生時代に松本さんの論考を読んで影響を受けたという和田悌二さんと出会い、一葉社を立ち上げた。「松本昌次」の名前が出なければ、一葉社は生まれなかった。
その松本昌次さんが2019年1月に92歳で亡くなった。4月には「松本昌次を語る会」という追悼集会が行なわれた。その会場に、信濃毎日新聞記者の河原千春さんが、もろさわようこさんの追悼の言葉を携えて長野から駆けつけてくださった。懐かしくもあり、胸がキュンとするような名前に40年数年ぶりに再会した。もろさわさんと松本さんは、本をきっかけに「同志的」な関係性を築いてこられた。
河原さんはそのころ、信濃毎日新聞で「夢に飛ぶ もろさわようこ、94歳の青春」というタイトルの連載記事を発表している最中で、掲載されるたびに送ってくださるようになった。記事を読みながら、学生時代の記憶が徐々に蘇ってきた。
そして、もろさわさんが、「書く」という表現から、「志縁という思想」の実践活動による表現に重点を移されたことを知った。「志縁」とは、地縁や血縁に縛られて個としての自由を失うより、志や生き方への共感で結ばれる関係性でこそ人は解放される、というものだ。志縁を実践するために、長野県佐久市に「歴史を拓くはじめの家」(現「志縁の苑」)を開設し、同様の交流拠点を沖縄県南城市、高知県高知市にも構え、思想運動を展開していることを知った。
■パッションに突き動かされて
本書の編著者である河原千春さんは、2013年に初めてもろさわさんに出会う。以来、唯一無二のもろさわさんの言葉に惹きつけられ、渾身の取材を続ける。河原さんの、もろさわさんに対するパッションが本づくりの源泉だった。
100歳近いもろさわさんと、1982年生まれの河原さんが紡ぎだす言葉は、今を生きる私たちが、それぞれの「在りよう」を根源的に考えるヒントとなる。
河原さんは、もろさわさん自身がかつて新聞や書籍、機関誌などに発表した論考を12本選び出し、第四章に収録。
1966年~68年に信濃毎日新聞で連載後、69年に未來社から出版された『信濃のおんな』から選んだのは「軍国の女たち」「敗戦と女たち」「きょうの女たち」の3本。初出の新聞版と出版された書籍版ではかなりの違いがあることに進行しながら気づく。どちらも、著者のもろさわさんだけでなく、担当した編集者の意思を感じられるような違いである。書籍版を担当したのは、あの松本昌次さんだ。
河原さんは丹念に読み込み、新聞版と書籍版の「良い部分を補い合うように再編集」した。つまりは、本書のオリジナルであり、河原千春版といえる。もろさわさんからの信頼があればこそ、である。
書名について、「~蔑視の意味も含んだ『おんな』をあえて使って女性差別を見据え、解放像を探った『おんな』の実像に迫りたいという意志を込めた。」と河原さんは記す。
さらに言えば、もろさわさんへのオマージュと、もろさわさんの志を河原さんが継承することを書名で〝宣言〟する、という意味も込めた。
20代の私が感じ取ったもろさわさんの言葉は、「天皇の戦争責任と、天皇制がなくならない限り、このクニの差別はなくならない」というものだ。その言葉を今も糧にしている。
もろさわようこさんをキュンと思い出す方も、全く知らない方も、今という時代だからこそ、ぜひ手にとって、読み取って、感じ取っていただければ、と切に願う。
もろさわようこさんがマスメディアから遠ざかって40年余り、その〝空白〟の思想と実践を埋める初の書でもある。
(女性と女性の活動をつなぐポータルサイト WAN〈ウィメンズ アクション ネットワーク〉
『女の本屋』2021年12月23日 https://wan.or.jp/article/show/9842)
第9回
加害と、加害と、加害と
――映画『狼をさがして』の彼我の差
和田悌二
日本国の紙幣を透かすと
お札を透かして見ると何が見える。スカシ? 否、血! 血が見える。薄朱色の血痕が。
誰の血――このクニの侵略によって無惨にも殺された中国や朝鮮半島やアジアの人びとの血、かの地の女性や子どもたちのおびただしい血が。加えて、敗戦後も、このクニの「戦後復興」に大きく寄与した朝鮮戦争で流された血、そして「高度経済成長」とやらをもたらしたベトナム戦争で流された血も。
わたしたちが豊かになればなるほど、その紙幣には、かの地の人びとが流した大量の血がしみついていく。このクニの成長発展は、かの地の人びとの流した血のおかげでもある。このクニは、自分たちが起こした非道な侵略戦争によって2000万人超とも言われる人びとのかけがえのない命を奪っておきながら、その最大の責任者であった昭和天皇(と天皇制)を全く裁かずに存続させた。そればかりか、その後も天皇を実質的に「国家元首」として戴きながら、己の利得(お金)のために朝鮮半島やベトナムの人びとの惨状に付け入り、あまつさえ殺戮にまで直接的間接的に手を貸し続けてきた。そうやって豊かになったこのクニで生きているわたしたち日本人。そんなわたしたちは、当然、あの侵略戦争での加害責任を引き受けることはもちろん、戦後も経済侵略(新植民地主義)によってずっとまとわりついていた加害者性を自覚し克服に努めるべきだった、はずなのだが……
実際は、日本人のほとんどが紙幣に見るのはスカシだけ。血なんか見なかった。見ようともしなかった。ところが、加害の証拠である紙幣にしみついたその血を、はっきりと視認した若者たちがいた。透かし見た血痕で、己(日本人)の加害者性を間近に突きつけられて胸が苦しくなり、その事実から目をそらすことができず、いてもたってもいられなくなった誠実な若者たち。そして「東アジア反日武装戦線」は生まれた。紙幣にかの国の人びとの血痕を透かし見てしまった彼ら彼女らにとっては、「東アジア反日武装戦線」は必然であった。
これは〝狼〟ばかりではない。例えば、〝大地の牙〟の斎藤和は、ベトナム戦争真っ只中の1966年10月、東京・田無の「兵器工場」に生産を阻もうと仲間数人と侵入した経歴を持っている。その工場で造られた「兵器」は米軍に送られて、ベトナム人民を殺戮する。紙幣に、そのベトナム人民の血を透かし見た彼らにとっては、加害者のままでいないための、これ以上の加害を繰り返さないための止むに止まれぬ行動であったろう。この行動で、斎藤たちはその後一斉に逮捕され、仲間や仲間の親の自殺など悲劇的な事態に見舞われる。にも関わらず、斎藤は日本人としての加害者意識が薄れることはなかった。その証に、この映画の「主役」の一人でもある浴田由紀子をパートナーに、やがて〝大地の牙〟と称して「東アジア反日武装戦線」に連なっていく。
二重の加害者意識の中で
紙幣にアジアの人びとの血痕を見たことによって、日本人としての加害者意識、加害責任を誰よりも痛感せざるを得なかった彼ら彼女らは、1974年から75年にかけて、これ以上の血を流させないために、あるいは膨大な血を流させた責任を問うために、思い切った直接行動に走る。
しかし、それは、今度はこのクニの人たちに血を流させる悲惨な事態を引き起こしてしまった。特に、1974年8月30日に〝狼〟が実行した、いわゆる「三菱重工爆破事件」は、8名もの死者、385名もの重軽傷者を生み出す。予期せぬこととはいえ、取り返しのつかない大惨事であり、まさにこの映画の劇場用パンフの「解説」にあるとおりの、まごうかたなき加害者となってしまうのである。
「〝日本帝国主義の子孫〟として、そして〝爆弾で人を殺めた者〟としての二重の加害者意識。……今もなお、彼らはその二重の加害者意識のなかに生きている。誰よりも日本人として日本の戦争責任を真摯に問おうとした若者たちは、皮肉にも多くの死傷者を出した加害者として歴史に名を刻んでしまった」
このクニ=自分たちの加害者性を強く意識し、責任を感じ、非道と不始末を顕現化させ、これ以上の加害を阻止しようとしたからこその新たな加害――
ここに1冊の本がある。書名は『三菱重工爆破事件』。あの事件現場にいた三菱重工の社員(当時)が著した実録ドキュメント・体験記である。元は『爆風』の題で2010年に刊行したのを一部加除・訂正し、2018年6月に改題して再発行したとのこと。大道寺将司が亡くなったのが2017年5月なので、その約1年後に改めて刊行されたことになる。
その本の「追記」に、名前は出していないが、大道寺についてこう書いている。
「……殺人の罪に問われて死刑が確定していた男性(六八歳)が平成29年五月二十四日、東京拘置所で病死した。彼は寿命を生きたのだ」
著者は、親友の同僚をあの事件によって目の前で亡くしている。その痛憤の思いから、無念と憎悪を込めて「彼(大道寺)は寿命を生きたのだ」と記したのだ。その文章は、「(親友は)働き盛りの若さで命を奪われたのだ。もっともっと生き……たかったろう。無念だったろう。〇〇が哀れでならない。私は、今でも、涙が止まらない」と続く。加害者(大道寺たち)への当然の怒りである。
が、しかし、あえて言う。このクニの戦前・戦中・戦後の加害によって、この著者と同じ思いを抱いた人は、中国や朝鮮半島やアジアに、それこそ無数にいる。そして、その加害の最高責任者である昭和天皇は、まさに「寿命を生きたのだ」。これが、かの国の無数の人びとにとって、この著者の痛憤や無念や憎悪と同様でないはずがない。このクニの加害責任は、かように重いし、決して他人事ではないのだ。いや、そもそもこのクニの加害がなければ、このクニと天皇が甚大な加害の責任をきちんと取って後始末(謝罪と補償)をしていたならば、〝狼〟たちの加害もなく、8名も死なずにすんだはずである。
この本のカバーや表紙には、当日の凄惨な現場の写真が使われている。道路のそこかしこにボロ雑巾のように打ち倒されている人たち。ビジネスマン風の男性が、もはや物体と化した血だらけの人間の胸に耳を当てている。生存確認か。あたり一面には雨あられのように降ったビルのガラスが散乱している。それらの写真と重ねて本文を読むと、そのときの絶望的で酷い状況がさらに生々しく迫ってきて、胸が痛むばかりである。〝狼〟の爆弾は確かに8名の生を奪った。どうしても取り返しのつかない加害であることは、免れようがない。だからこそ、それだからこそ、わたしたちはその元々の加害に目を向けなければいけない。「彼は寿命を生きたのだ」の痛憤と憎悪と無念を、わたしたちはそのまま引き受けて考えつめ、とことん想像力を掘り下げなければいけないのだ。それは、数え切れない人びとの命を奪った、そしてその元凶でもある天皇をいまだに戴いているこのクニの人間としての最低限の義務だ。
韓国の人びとの意外な反応
正直に言えば、わたしはこの『狼をさがして』の映画を見た後、スカされた気分になった。ここまで書いてきた「加害」が、実はこの映画からあまり感じ取れなかったからである。確かに、映画には、いたるところに加害が、断片的には出てくる。釜ヶ崎の寄せ場から始まり、山谷、天皇「お召し列車」爆破未遂の荒川鉄橋、三菱重工本社前、東京拘置所、そして青森のねぷたから釧路のアイヌ祭りや廃坑、などなど。どれも、加害と結びついた現場である。でも、それらは抒情性をまとった景観的な映像として流れて行き、深刻で無惨な加害や加害者性を想起させて、加害事実に厳然と直面させるまでにはいかない(少なくともわたしには)。
しかし、この映画を監督・制作したキム・ミレの「プロダクション・ノート」(前記の劇場用パンフ掲載)によれば、この映画の一番のテーマはどうやら「加害」であるらしい。しかも、日本の加害や加害者性への彼ら彼女ら(〝狼〟たち)の問題意識や行動過程を描くだけではなく、その行動結果の取り返しのつかない加害行為による内面をも描き出そうと試みたようだ。「ノート」の末尾「観客へのメッセージ」にはこうある。
「逮捕されたのちに、彼らは刑務所の内外で長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました」と。
この映画の韓国語原題は『東アジア反日武装戦線』。題名はテーマを表す。確かに、その原題をバラバラにしてみれば、すべて「加害」と結びつく。「東アジア」はこのクニの加害が最も及んだエリアであり、「反日」はその加害を認識・自覚すれば必然的に自己否定を含めて反日本(人)にならざるを得ない。「武装」は強大な加害者に追い詰められた小さき者のやむなき抵抗・反撃(加害)であり、そして「戦線」はこのクニのこれ以上の加害をくい止めるための切実な関係性(連帯)であろう。やはり、「加害」を最大のテーマに、この映画は作られたのだ。にもかかわらず……
そんなとき、この映画のもうひとりの「主役」荒井まり子からコピーの綴りが送られてきた。「いまだ夢を追う狼を名乗って――韓国からの遅れた応答の記録」という2019年晩夏に関西で行なわれた上映・討論会の記録である。一読して、驚愕した。ここに登場して発言している韓国の教員・研究者、運動家、労働者、制作者は、一人残らずこの映画に、まさに加害と加害者性のテーマを、的を射た形で見い出し、掘り下げているのだ。天皇・天皇制の犯罪性にまで言及しながら。
しかも、日本の加害・加害者性についてばかりではない。最も驚いたのは、この映画を契機に、その視座が韓国の加害・加害者性にまで及んでいたことだ。ベトナム戦争時の韓国軍の民間人虐殺などを例に出して。しかもしかも、歴史的な加害事実ばかりか、まさに自分たち自身の問題としての現在進行形の韓国の加害にまで言及しているのだ。
「1970年代に青年だった彼らが送ったメッセージが、この作品によって2019年を生きる私たちに遅れて届いたのだと思っている。……済州島のイエメン難民、労働現場での止まない(移住)労働者の死と代理労働の問題など、私たちは〝内なるアジア〟とどのように出会い、どのような戦線を作るのだろうか?」
胸を動かす一文である。もちろん、韓国企業によるベトナムなどへの現在の経済侵略や、国内でのいわゆる経済格差や分断による加害性にまで視野は及んでいる。そういえば、監督のキム・ミレも次のように語っている。「私たちもまた、他の誰かに対する加害者になっているのではないか、それならば、私たちはどう自覚し行動しなければならないのかを悩むようになった」(劇場用パンフより)と。
そして、映画の中の浴田由紀子の「パレスチナで私が学んだ革命は新しい関係を作ること」「自分の周囲との関係を変えることによって世界を変える」などという趣旨の言葉や、特に東北人が戦争に動員されてきた歴史を見据えての荒井まり子の反原発運動と「反日」の結びつきについてのインタビューなどに鋭く感応しながら、加害の超克とその先を見据えようとする。この映画から、自分たち(韓国は日本の加害の被害者であったにもかかわらず)の加害性を真正面から見つめ、しかもそれが過去のことだけではなく現在の加害にまで及んでいきながら、加害事実と加害責任から逃げずに、新しい関係性を切り拓くべく切実に真摯に問い続けているのだ。
それに比して、このクニは――。取り返しのつかない加害事実をまるでなかったことにし、加害責任には頰かぶりして無視し、あまつさえ加害者性を問われると逆ギレして罵詈雑言で被害者を責め立て辱める。問題は、これがごく少数の極右ヘイトの輩だけではなく、政府とマスメディアが音頭を取っていることによって、もはやこのクニの大勢となっていることだ。日本国と日本人の加害はタブーとなり、雲散霧消している。破廉恥以外のなにものでもない。
そういえば、この映画の見開きチラシには、9人の日本人識者の惹句が並べられている。この映画チラシに登場するぐらいだから、すべて前記のようなこのクニの大勢とは一線を画している人たちだろう。職業も、大学教員、研究者、新聞記者、劇作家、映画監督等、韓国の先の発言者たちと同じような立場の人たちである。ところが、彼らの文章に、「加害」という言葉は一言も出てこない。誰一人として発していない。これは単なる偶然だろうか。
最も出てくる言葉は、相変わらずの「おとしまえ」である。この、どこかヒロイックでヤクザ臭の言葉を、いくらかつての彼ら彼女らの文言だからといって、今でも無神経に引用し書きつける心根。この「おとしまえ」という否応なく加害性を帯びた短絡な言葉が導いた結果で、その後の彼ら彼女らは自分たちの取り返しのつかない加害事実にどれだけ苦悶・煩悶し、後悔し、絶望したか。それは、例えば浴田由紀子の最終意見陳述ひとつとってみても明白である。それを、この映画のいわば宣伝文句にためらいもなく使えるというのは、彼らが「加害」から実は遠くにいることの証座であろう。そういえば、彼らの文句はすべて、どこか他人事の解説者風である。韓国の発言者の、「加害」を我が事として引き受けようとしているのとは雲泥の差である。このクニの汚染は、誰も免れ得ないのか。
*
それにしても、韓国の人びとが「加害」と鋭く向き合ったこの映画を、それでもなぜもの足りなく微温的に感じたのだろう。ここまで書いてきても、実はその理由がはっきりとはわからない。ただ、このクニの「加害」をなきものとした破廉恥さが、その汚染されたクニで息をしつづけていることが、おそらく、どこかで、この映画に満足し得なかったわたしの感慨とかかわっているのかもしれない。判然としないままに、先の「記録」に載っていたこの映画の撮影者の言葉で擱筆する。
「……むしろ、明快ではないながら、この空間を出た後にもかの人たちの生が、様々なシーンが頭に浮かび上がってくることを願いながらイメージを配置した。だから私はこの映画の不徹底さが、むしろこの映画のすばらしい点だと思っている」(パク・ホンヨル)
(敬称略)
あの事件から47年目の2021年8月30日に
(『プチの大通り』129号/2021年9月20日)
第8回
新刊『横井久美子 歌手 グランドフィナーレ――歌にありがとう』の書名について
和田悌二
横井久美子さんは、今年(二〇二一年)一月十四日に亡くなった。この本は、残念ながら遺著になってしまった。
本書の書名は、横井さんが遺したものである(提案時は『横井久美子 グランドフィナーレ』)。昨年秋に、この書名を思いついたとの電話をいただいたとき、最初は同意できなかった。横井さんは、あくまでも歌手なのだから、「グランドフィナーレ」はステージ上で使うべきではないかと。「うーん、そうね。もう少し考えてみるわ」と言って、その電話は切れた。
しかし、そのときすでに横井さんは覚悟していたのだ。覚悟していて、そのうえでの〝投瓶通信〟だったのだと、亡くなってから気づいた。だからこそ、後に続くわたしたちに、自身の「グランドフィナーレ」をこの本で最期に示したかったのではないか。この社会の誰もが、この世界に暮らすすべての人びとが、それぞれのグランドフィナーレ、大団円で幕を降ろすことを願いながら。
そのことを連想させる横井さんの印象的な文章が本書にある。
どんなに大金持ちでも超有名人でも、また、貧しくても無名でも、人の幸せは、その人らしい「仕事」をしながら生きていくことだ。私は歌うことにしがみついていこう。
そう思った時、私の四十年余りの歌手生活を振りかえると、私を励ましてくれたのは、世の不正義に対し勇気を持って声をあげ、過酷な運命にもかかわらず自ら歴史を切り開いてきた女性たちだったことを改めて思いだしました。
これまで私は、「薬害スモン訴訟」「じん肺訴訟」「原爆症認定訴訟」に、それぞれ十年単位でかかわり、その中でたたかう女性たちの姿に感動し、歌をつくって支援してきました。そんな日本の女性たちも……時代に挑戦して声をあげてきた点では同じではないのか、そんな彼女たちを「謳いつづけた女たち」として、歌物語風に表現してみようと思ったのです。
(第1章「ゆるゆるふっくり 暮らしを謳う」より)
横井さんは、これまでの歌手生活、歌手としてのたたかいを通して、間違いなく「グランドフィナーレ」を迎えた。この本の全ページに、そこに至るエキス、粒子が満ちている。書名は、やはり「グランドフィナーレ」以外にはない。しかも、横井さんはコマーシャリズムに乗ったいわゆる「歌手 横井久美子」ではなく、あのベトナム戦争時の少女にまで生きる勇気を与えた「横井久美子歌手」なのだ。横井さんにとって「歌手」とは、単なる肩書きを超えて名前と一体化した、運動体としてのレゾン・デートル(存在証明)でもある。
だから、「歌にありがとう」は、横井さんからの言葉でもありながら、わたしたちから横井さんに伝える言葉でもある。「横井さんの歌にありがとう」「常にいのちへの念(おも)いを届けてくれた横井さんの歌にこそありがとう」と。
最後に、友寄さんの「あとがきに代えて」でも紹介されているが、横井さんが「50周年記念コンサート」で『風の中のレクイエム』を歌う前に語った言葉を再度――
人が何か死ぬ時、悲しくて涙を流しますよね。昔、『旅芸人の記録』という映画を見た時に、……黒いヴェールをかぶった人たちが、棺が埋められる時に拍手をしたんですね。で、それを見て、「そうか、生きて、十分生きて死ぬということは、拍手でもって送られることだ」と思ってつくった歌です。私が死んだら拍手してください。
2021年4月28日
(一葉社刊『横井久美子 歌手 グランドフィナーレ――歌にありがとう』所収)
第7回
映画『狼をさがして』を見てたどる
私の「反日」の原点
大道万里子
映画『狼をさがして』を見終わったとき、「ああ、これは荒井まり子さん、浴田由紀子さん、大道寺ちはるさんの映画だ」と思った。
まり子さんと母上の智子さんがアリランを歌うシーン、浴田さんがまり子さんの亡くなった父上の写真の前で声を抑えて〝号泣〟するシーンに、泣いた。なぜ泣いたのかを考えるために、私の「反日」の原点をたどってみる。
「反日」の芽生えと〝世間〟からの激しい向かい風
1986年から、東京で小さな出版社を営んでいる。翌年、雑誌『月刊活字から』を発行。2号めで反日武装戦線の本を紹介するために「被告たちの本」を特集。『狼煙を見よ』を出版したばかりの松下竜一さんに原稿依頼すると、「〝狼〟たちを知って」という題名で、次のような書き出しの原稿が届いた。
「三月二十四日午前十一時過ぎ、最高裁判所は東アジア反日武装戦線四被告の上告を棄却し、これによって大道寺将司と益永利明に対する死刑、黒川芳正に対する無期懲役、荒井まり子に対する懲役八年の刑が確定した。」
そう1987年は、最高裁判決の年であった。原稿には、本が生まれたいきさつなどが書かれていた。そして最後、松下さんは次のように記す。
「彼らが提起した『反日』の思想は、いまますます重要性を帯びているのであり、心ある人々の中に彼らは強く生き続けるだろうことを、そのとき私は思っていた。」
思えば、これが、私の心に「反日」という言葉の実像が芽生えた最初だった。
2号刊行後、激しい向かい風にあう。知り合いの印刷会社の幹部からは「テロリストを擁護する出版社とは付き合えない」と絶縁され、ある株主からは「見損なった。株主をやめる」と罵られた。「反日」は〝世間〟には受け入れられない、という現実も体感した。
女性たちを念頭に作ったのではなく……という監督の言葉に共感
4号から、荒井まり子さんの「今ふたたび――呼び声は獄舎を超えて」という連載を開始。まり子さんは懲役8年が確定し、月に一度、便箋7枚まで、親族宛にしか手紙を書くことができなくなっていたため、獄中結婚した荒井彰さんへの手紙という形で実現した。
この連載は、10号まで続く。その後、11号、12号には「荒井まり子同時代日記」となる。なぜなら、まり子さんは、「11月27日早朝4時半、12年半ぶりに自由の身となり塀の外へ出ました」となったからだ。懲役8年の刑期はとっくに過ぎていた。「精神的無形的幇助」というひどい罪名を私は忘れない。
出所後、彰さんに伴われて会社を訪ねてくださった。街の喧騒が耐えられない、と語っていた弱々しい姿が印象的だった。
その後、この雑誌を刊行し続ける資金が尽きた。その代わりに、他社の出版物を請け負う仕事を始め、某大手出版社の「教育雑誌」の挿絵としてまり子さんにイラストを依頼。映画に、その雑誌がちらっと出てきて、懐かしさを感じた。
私は、奇遇にも彰さんと地元が同じだった。まり子さんが彰さんの実家に出かけてきたときに会ったりもした。このころは、あの弱々しさは微塵もなく、息子さんを育てるたくましいお母さんになっていた。
その後、ケアマネジャーとなり、介護の仕事をするようになってからはあまり会わなくなっていた。ここ数年、女川原発反対闘争の本づくりで、また親密さを取り戻せたのがうれしい。まり子さんの手づくりの品も届くようになり、映画で見たあのキッチンで作っているのかと思ったら、また泣けてきた。
冒頭に戻る。私は、なぜ泣いたのか。それは、〝やさしさ〟を感じたからだと思う。
まり子さんだけではない。浴田さんから聞いた話。浴田さんの出所後、まり子さんからたくさんのお米が届いたという。「私ひとり分ではないと思って他の人にも届けに行ったの。でも、道はよくわからないし、つまずいて転んでしまったの。痛かった~」と笑って話す浴田さん。そんな痛い思いをしてまで分け合う、共生、映画で朗読した浴田さんの陳述書にも通じる。
大道寺ちはるさんとのエピソード。もう数十年前、ちはるさんは、偶然に私たちの会社(駒込)の隣りの花屋さんで仕事されていたことがある。その花屋を退職する日、かわいい鉢植えを持って挨拶に来てくださった。そのとき、この偶然も、どこか必然だったような気がした。
この映画が、「荒井まり子さん、浴田由紀子さん、大道寺ちはるさんの映画」だと思ったのは、他者を受け入れ、排斥しないやさしさが、画面から伝わってきたからだと思う。排斥は、明治以来、この国が犯してきた侵略と虐殺につながる。
だから、キム・ミレ監督の次の言葉がしっくり私に入ってくる。
「女性たちを念頭に置いて映画を作ったのではなく、私が辿り着いた場所に彼女たちがいたのです」(『支援連ニュース』419号)――。
(『支援連ニュース』421号/2021年6月)
第6回
三島由紀夫の犯罪事実にこだわる
和田悌二
今年2020年11月25日は、あの三島由紀夫の犯罪が起きてからちょうど半世紀。彼のグロテスクな行為は、取り返しのつかない禍根をこの国に残した。ジャーナリズムや文化面での右傾化、有意義なラジカリズムの衰退とそれに比しての草の根右翼の台頭と跋扈、そしてそれらを基盤としてついには安倍・菅極右内閣による統治へと。にも関わらず、この犯罪の50年後を記念して三島を報じるマスメディアは、醜悪な犯罪者の印象を極力薄めて、三島由紀夫という危険な虚構をいかにも意味ありげにそれらしく伝えるばかり。まるで、文学者は特別な存在でもあるかのような取り扱いで。
あの三島の愚劣な犯罪と切腹死は、全否定されるべきものであることを改めて確認し自覚するために、33年前の拙文をあえて再録する。 (2020年11月30日)
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文学という名のまやかし――三島由紀夫賞と三島由紀夫の犯罪行為
新聞記事の重要な欠落
1970年11月25日、作家・三島由紀夫は、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に自分の私兵である「楯の会」の数人を伴って入り、時の陸上自衛隊東部方面総監の益田陸将を人質にして改憲などをスローガンに自衛隊の決起を訴えた。そして、それがかなわぬとみるや、楯の会の1人とともに総監室にて割腹自殺する。
それから17年後の秋、芥川賞・直木賞に対抗して新潮社が三島由紀夫賞・山本周五郎賞を新設し、それが全国紙地方紙全ての新聞で報じられた。しかし、三島賞に関して、三島由紀夫がかつて明白な刑事犯罪人であったという事実にふれた記事は一つも見当たらなかった。
新しい文学賞の創設を報じること自体は、別段いっこうにかまわない。しかし、その賞に冠した名前の人物が、反社会的な行為を行なって多くの影響(禍根)を残した人物となると、簡単に見過ごすことはできない。
恐らく、その人物が何をなそうと、その人物の文学上の業績(?)とは別のものであり、今度の賞の場合は純粋に文学の領域に関することであるから、あえて過去の犯罪行為に触れる必要はない、ということなのだろう。
だが、果たしてそうであろうか。本当に、作品とその作品を創り出した人間とは別次元で論じられるべきものなのであろうか。そんなことはない。作品、特にどこまでも〝人間〟を扱わざるを得ない文学作品で、その作品を創り出した人間と作品を完全に切り離すことなど不可能に近いはずである。一つの文学作品には、それを生み出した作家の価値観や思想、経験、美意識などがどうしても入り込む。また、それらが入り込まなければ、読む者をして心を動かされるような傑作も生まれないはずである。いわば、文学上の作品は、それを創った人間の一つの〝細胞〟であり、だからこそ総体的に論じられるべきものである。
それならば、三島由紀夫という名を冠した賞が新設され、それを報じるときに、たとえその名を付すことのよし悪しの論評は避けるにしても、三島由紀夫がかつて何を為したか、その事実については最低限一言付け加えるべきではなかろうか。事実、例えば永山則夫がある文学賞を受賞した際の記事には、永山がかつて犯罪を犯したことを付していたはずである。
どうして、三島賞では、その事実が欠落してしまったのか。その大きな理由の一つに、三島賞の選考委員の顔ぶれがあるような気がしてならない。特に、大江健三郎氏、である。
大江健三郎氏の役割
三島賞が大きな話題になった理由の一つに、確かに選考委員の顔ぶれがある。それは、各新聞記事を見ても明らかである。中でも、大江健三郎氏が選考委員に名前をつらねていたことが耳目を引いた。その理由は、主に二つある。一つは、反核や平和運動に積極的な発言を続けていた大江氏が、三島の名を付した賞の選考委員という形で三島由紀夫に肯定的に関わる意外性であり、もう一つは、やはり考え方、立場を異にすると見られている江藤淳氏とともに加わったことである。
実は、この二つの理由が、三島賞を報じた新聞記事から三島由紀夫のかつての犯罪行為がすっかり欠落した大きな原因であるような気がするのである。
いうまでもなく、大江氏は前述したように一般的には反核平和主義の、いわゆる〝進歩的文化人〟の代表的な作家とみなされている。その大江氏でも、全く正反対と思える立場にいた三島由紀夫の名を付している文学賞の選考委員に加わったのだから、やはり文学と作家の行為とは別次元で捉えるべきであり、三島由紀夫がかつて何をしていようと三島賞とは無関係である、という一見もっともらしい論理を新聞記者たち(と実はその後ろにいる一般読者)に与えてしまったのではないだろうか。しかも、これも考え方や立場を全く異にする〝タカ派〟の江藤氏とも、ともに加わるくらいだから……と。これは、容易に想像できることである。
ここで、大江氏が果たした役割は重大である。そして、それは決して是とされるものではない。単に、三島賞を報じた新聞記事から三島の犯罪事実を欠落させる一役をかったにすぎない、という現象面だけではすまされないものがあるからである。
三島由紀夫賞の危険性
三島由紀夫の犯したあの犯罪行為は、間違っても認められるべきものではない。それは、ただ単に犯罪だからというゆえではない。なぜ、認められないか。その一番の理由は、あの事件が、一部のマスコミを動かすことによってその後の日本の右傾化への大きなきっかけの一つになったからである。右傾化、もっと具体的にいうならば、かつてのあの忌わしい時代、戦争へと流れていった時代に逆戻りしかねない風潮を醸し出すきっかけになったからである(このことは、例えばかつて『週刊新潮』の編集部次長であった亀井淳氏の証言集『「週刊新潮」の内幕』第三文明社刊に詳しい)。もちろん、好戦的な反動勢力を勢いづかせたことはいうまでもない。
だからこそ、決して是認すべきものではないし、三島を肯定的に捉えかねない三島の名がついた賞を報じる場合には、犯罪事実について最低限一言あってしかるべきだと思うのである。しかし、実際には「文学」という隠れみのでそのことは欠落され、しかもそれに大きな役割を担ったのが、たとえ無自覚にせよ大江氏なのである。
新聞がいわば手放しで三島賞を報じたことで、三島賞は三島由紀夫という名を冠することの危険性を論じられることもなく、一般に公認されることになった。ここが、最も危惧するところである。
前でも少しふれたが、賞というからには、肯定的に捉えられる。これは何もせまい文壇内部や賞を狙う新人作家だけに限ったことではなく、一般においてもそうである。
もちろん、賞を狙う新人作家が三島賞を肯定的に捉えることにも問題はある。たとえ、いくら三島由紀夫のあの行為は認められないと自分で自覚しているつもりの作家でも、三島賞を狙っていれば、あるいは三島賞に選ばれれば、無意識のうちにどこかで三島という名までも肯定する気持ちが芽生えかねないからである。人々に少なからぬ影響を与える作家、しかも若い作家たちがどこかに三島を肯定的に捉える意識を持つとすれば、これは大いに危険である。三島由紀夫の名を積極的に利用しようとする反動勢力は、これを決してほうってはおかないだろう。
しかし、何よりも問題なのは、やはり一般の人々に、三島賞を媒介にしていつしか三島由紀夫までも肯定的に捉える意識が芽生えかねない危険性である。決して、これは杞憂ではない。例えば、ノーベル賞を見ればよい。
世界で最も権威あるとみなされているノーベル賞だが、その賞の名になったノーベルは必ずしも全面的に肯定されるべき科学者ではない。ノーベルが発明したダイナマイトは、戦争での大量殺傷兵器のはしりとなっている。しかし、ノーベル賞の肯定性ゆえに、いつしかノーベルも大多数の人々から無条件で肯定的に捉えられるようになってしまった。三島賞もこれと同じでないとは、絶対いい切れないのである。
三島由紀夫が一般の人々の意識の中で肯定的に捉えられた場合、最も危険なのは、ノーベルのダイナマイトが人殺しの道具として利用されたように、三島の思想(ごときもの)が一部の好戦論者によって彼らのいいように利用され、時代がもっと急テンポで直接的に逆戻りしかねないことである。
大江氏は、このことを決して望まないであろう。実際、大江氏は「反核運動に反対する言論の『諸君』編集長と『文芸春秋』本誌で協力しなければならなくなりそうだったから」(1986年8月9日付朝日新聞夕刊「しごとの周辺」での大江氏自身の言葉)芥川賞の選考委員をやめているではないか。それならば、芥川賞よりももっと問題があり危険性の多い三島賞の選考委員など、引き受けるべきではなかったのではないか。それを、「外国で三島さんの名はよく知られているので、いいネーミングだと思う。……作家を世界に送るにもいい名の賞だ」(三島賞・山本賞の創設に関しての共同通信配信記事に載っている大江氏自身のコメントから。信濃毎日新聞1987年9月19日付の記事等参照)などと全くの手放しで積極的に受容してしまってもいいものであろうか。再考すべきである。
最後に、ここでは影響力やその位置している立場から大江氏に的をしぼって論じたが、他の選考委員の諸氏にも言いたいことは同じである。特に、筒井康隆氏、中上健次氏、宮本輝氏は雑誌や取次等の各種の調査でも人気作家とみなされている(左下の広告<略>と毎日新聞87年9月24日付夕刊の記事参照)。このことは、その影響力から考えてますます危惧を深めさせる。
もちろん、新聞も三島賞の記事に関しては、再検討すべきであることはいうまでもない。
(一葉社刊『月刊 活字から』1987年9月号/「特集3 ちょっと待ってよ〈三島賞〉――やっぱりひっかかります大江さん」より)
第5回
「横浜大虐殺」――すぐ近くにある虐殺現場と地続きの今
大道万里子
(左)慰霊碑の前で、「追悼舞(サルブリチュム)」を舞う曺和仙(チョウ ファソン)さん(2015年)
(右)上映会は公民館などで行われることが多く、上映後は呉充功(オウ チュンゴン)監督からのお話も
1923年9月1日11時58分、相模湾を震源地として発生した関東大地震。甚大な震災に乗じて、東京、神奈川、千葉、群馬などで6000人以上の朝鮮人が虐殺された。
横浜では毎年、朝鮮人犠牲者を悼み、西区の久保山墓地で追悼会が行なわれている。石橋大司さんという一市民によって建てられた慰霊碑の前で。石橋さんは、小学校2年生のときに関東大震災で襲われて血まみれになった朝鮮人の死体を見た。「日本人としてけっして忘れてはならぬ歴史的事実を残したい」と、59歳のとき(1974年)に自費で建立した。
ここ数年、私も参列してきたが、今年はコロナ禍で一般参加が見送られ、9月5日、「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」が代表して執り行なった。石橋さんの思いをずっとつなげていくために、と。
「横浜大虐殺」――追悼会やフィールドワークに参加して聞くようになった言葉だ。知られている東京よりもずっと多くの朝鮮人が、この横浜で残虐に殺されていった。
もちろん数の問題ではなく、一人でも虐殺に違いないが、その「大虐殺」の事実はあまり知られてこなかった。私も参加するまでは知らなかった。
そこには、この横浜にいかに多くの朝鮮人が住まなければならなかったか、という事情がある。横浜は、明治時代から開港都市として拡大を続け、人口が一挙に増えていた。1910年(明治40年)ごろからは、鶴見、川崎の海岸線や湿地帯を次々に埋め立て、いわゆる京浜工業地帯が出来始めていた。つまり、関東大震災当時、港湾工事や新しい工場などの建設に、日本によって植民地化された朝鮮ではなかなか働き口のない多くの人びとが、この横浜に職を求めて来ていたのだ。
私は1955年生まれで、小学生までは神奈川区、中学生以降は鶴見区と、ずっと横浜で育ってきた。私が住むすぐ近くの地で、無残にも殺されていった人びとがいたことをフィールドワークに参加して知るようになった。
それは、幼いころ、父に連れられて散歩した浅野学園の銅像山だったり、当時としてはまだ珍しかったジェットコースターに友人と絶叫して楽しんでいた反町公園だったり。
特に、生麦(鶴見)の海岸やコットンハーバー地区(神奈川区橋本町)として開発された海岸沿いに、折り重なった夥しい死体が打ち寄せられていたことは、その光景を想像して言葉をなくした。この海には、夕焼けではなく、人びとの血で真っ赤に染まった「とき」がある。殺されていった人びとは、どれだけ怖かったことか。無念だったことか。この「とき」をなかったことにはできない。
ある日のフィールドワークのとき、コットンハーバーでその夕景の海を見ながら、山本すみ子さんにお母さまの話を聞いた。朝鮮人が襲ってきたときのために、寝床に灰を置いていたという。そのことに疑問を抱き、真相を知りたいという気持ちがこの取り組みの端緒だと話された。
神奈川実行委員会の代表の山本さんは、小学校の教員をされているころから授業などでこの事件について取り上げ、子どもたちとともに調べたり関係者に話を聞いたりして長年取り組んできた。
虐殺から90数年後、海を見ながら山本さんのお話を聞いたその「とき」も、忘れられない。フィールドワークは、日常生活からは遠く離れた「虐殺現場」へと誘ってくれる。
横浜だけではなく、千葉県八千代市の高津山観音寺、船橋市の馬込霊園なども訪れた。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の方々が案内してくださった。特に、市民の手で「なぎの原」で遺骨の発掘が行われ、6体が折り重なったように横たわっていたという話を、代表の大竹米子さんに聞いたことも重く心に残る。
原っぱの真ん中。みんなで大きな円になって話を聞く態勢となっていた。「それがここです」と話されたときは、足がすくんだ。虐殺された、まさしくその現場に立っていた。
その後、千駄ヶ谷区民会館で映画監督の呉充功(オウ チュンゴン)さんが制作した『隠された爪跡』(1983年制作)、『払い下げられた朝鮮人』(1985年制作)の記録映画を見たことも貴重な体験だった。
「払い下げられた」という想像もできなかった言葉の意味を映画を見て知ったとき、衝撃を受けた。誰が誰に朝鮮人を払い下げたのか、それは何のために――。
「なぎの原」で虐殺された朝鮮人犠牲者は、軍が、一般人である村人に、殺すように「払い下げられた」人びとだった。
関東大震災時朝鮮人虐殺は、「ヘイト事件」などと言われるが、一般人(自警団)が、流言飛語が原因で朝鮮人を虐殺した、と思っているとしたら、全くの誤りだ。もちろん、暴徒化した民衆が残虐にも多くの朝鮮人を殺していったのは事実だろう。
虐殺のあった各地では、共感する市民たちが地道な事実の掘り起こしを重ね、軍や警察が関与し、先導した「国家犯罪」であることを実証している。単なる「ヘイト事件」という言葉で終わらせることはけっしてできないのだ。
鶴見の話に戻る。考えてみれば、鶴見は関東大震災にまつわる土地でもある。
昨年(2019年)のフィールドワークでは、当時の鶴見警察署があった場所を訪ねた。署長の大川常吉さんについて、作家のキョンナムさんが『ポッカリ月が出ましたら』という著書で紹介している。
大川さんは、暴徒化した民衆が、鶴見警察署に連行されている朝鮮人を出せと押し寄せてきたとき、頑として立ちはだかった署長。
キョンナムさんは、大川さんが「〝殺される側〟の立場に立てる」ことに「いちばん強く心を動かされた」と記す。一歩引いて対岸から(客観的に)ものごとを見てみれば、国も人種も関係なく、誰もが守るべきなのは、そして守られるべきなのは命である。そのことを、頭で理解するのではなく、考えなくても感じられるかどうかなのかもしれない。
虐殺をなかったことにしたい人たちが、〝美談〟として大川さんの話を利用する。残念だし、悔しい。きちんと検証して、こちら側に「大川さんを取り戻したい」と思う。そのために私にできることは何か。
大川さんは、ハンナ・アーレントの言う、自分の頭で考えず、与えられた仕事を遂行することで大量殺戮に加担した単なる「小心者の役人」であるアイヒマンにはならなかったのだから。大川さんには、命を感受する力があった。
私たちも、2011年の東日本大震災のような巨大地震を経験した。命からがらのそんな時に暴動を起こすようなことなど考えられないことを実感している。
だからこそよけいに理解できる。「国家」という巨大な権力の「意図」がなければ、虐殺などできないことを。その当時、日本という「国家」には、朝鮮人を殺さなければならない明らかな「意図」があった。それは、歴史の流れをたどってみれば、明らかだ。
鶴見のことでもう一つ。同じく関東大震災時に虐殺された、アナーキストの大杉栄と伊藤野枝。二人は、野枝の前夫・辻潤を鶴見に訪ね、不在だったので鶴見の別の地、三笠園(現在の岸谷あたりという)に住む大杉の弟の家に寄って、その後いっしょに虐殺されることになる6歳の甥・橘宗一(大杉の妹の息子)とともに東京に帰ることになった。その帰途にことば巧みに連れ去られ、甘粕正彦憲兵大尉に虐殺された後に古井戸に放り込まれた。9月16日のこと。(97年前の今日だ!)
歴史の流れをたどれば、日本という「国家」には、「社会主義者」「アナーキスト」も殺さなければならなかった。その後、どのような時代をたどったか。
琉球という「国家」を平然と奪い取り、日清・日露戦争の覇権争いで他国を侵略し、朝鮮を植民地化した日本にとって、国内で「民族独立」や「労働者の団結」などと「反抗」「抵抗」する勢力は邪魔でしかなかった。関東大震災での社会の大きな混乱は、それらの勢力を排除するうってつけの機会だった。
つまりは、天皇制という統治システムを利用しながら(民衆には「差別感」を植え付け)「帝国主義」を推進する「権力者」にとって、朝鮮人も、朝鮮人に間違われた中国人も、日本人も、琉球人も、社会主義者も、アナーキストも、邪魔する者は抹殺したかったのだ。
現在のコロナ禍において、あからさまな「差別感」が蔓延し、たとえ校歌を歌わなくても「君が代」は強制する「天皇制」が顔を出す。
2023年に100年目を迎える関東大震災時の虐殺は、そう遠い昔の出来事ではない。今、すぐ近くの97年前の虐殺現場が地続きになっていることを実感する。けっして繰り返さないために、虐殺現場を心に刻む。
いつでも逆戻りする危うさを感じながら、再び追悼会に参加できる日を待つことにする。機会があれば、またフィールドワークに参加したい。大川常吉さんのお孫さんの大川豊さんが、韓国ソウルの病院に招かれて発した言葉、「ミアナムニダ」(ごめんなさい)を抱きしめて。
2020年9月16日記
追記
宮本研さん(『宮本研エッセイ・コレクション』全4巻)の作品に、関東大震災で虐殺された大杉栄と伊藤野枝を扱った『美しきものの伝説』と『ブルーストッキングの女たち』という戯曲がある。
今年は、「宮本研イヤー」と言われるほど、研さんの作品が上演されるはずだった。残念なことに、コロナ禍のため、『反応工程』『美しきものの伝説』がすでに延期されている。
ただ、この9月に劇団青年座によって『ブルーストッキングの女たち』の舞台が実現する。
第4回
『からゆきさん』は「明色の生感覚」で「その手にゃ乗らん」
和田悌二
「明色の生感覚」――「メイショクノセイカンカク」と読む(たぶん)。宮本研さんが、『からゆきさん』を書き上げる六年前(一九七一年)に表したエッセイの題名である。内容は、ほとんどがこの『からゆきさん』に通じる。
「明色」? 暖色ではない。研さんの大好きなコバルトブルーの空も、エメラルドグリーンの海も、寒色。なので、やはり「明色」。研さんの言う「クリーンで、クリアーで、ブリリアント」な色彩である。その単調さや欠陥を自覚しながらも、自分の芝居は「明るく。もっと明るく!」と訴える。
しかし、「からゆきさん」とは本来悲惨な歴史である。売春を強要されるのであるから人権にも悖るし、悲劇以外の何ものでもない。「明色」というよりは「暗色」。明るくなりようがない。なぜ「明色」であり得ないものまで「明色」にこだわるのか。このエッセイの中で研さんは語っている。
「悲劇を悲劇たらしめないためのきわどい変り身は、まずなによりも生きんがための庶民の知恵である」
「明色」にこだわるのは「生きんがため」。「明色」は、生き抜くための武器であり、どこまでも生を志向する象徴である、と。「生感覚」とは、「生来の感覚」とともに「生存の感覚」をも含意していたようだ。研さんは、名もない個個一人ひとりがとにかく生き抜くことを最優先にしたとき、「明色の生感覚」こそがモノを言うと本能的に察していた。そのことを、それこそ生理的な感覚として身につけ、確信していたのではないか。
それでは、生を阻害し、抑圧し、押し潰すものとは。それは「国家」であろう。その国家のほとんどは、戦争志向を内含している。戦争が、「明色の生感覚」とは真逆の「暗色の死(殺)感覚」なのは言うまでもない。
『からゆきさん』は、「明色の生感覚」(個・女)と「暗色の死(殺)感覚」(国家)とのせめぎ合いであり、最後は国家の化けの皮を剥がし、生を志向する女たちの「明色の生感覚」に軍配があがる芝居、と言ってもいいかもしれない。
「明色の生感覚」と生の志向、そのことを明示する印象的なセリフがある。演出家の高山図南雄氏によれば、あるとき研さんは自身の作家としての信条をこう話したと言う。
「おれは、たったひとことを言いたいばかりに、三幕や四幕の長い戯曲を書く」
「そのひとこと」とは、『からゆきさん』でいえば何か。娼館の主人・巻多賀次郎の最終場面での「その手にゃ乗らん」ではないだろうか。誰に向かっての? もちろん「国家」に対して。
『からゆきさん』は、痛快な芝居である。特に、最後に女たちが多賀次郎の哀願に目もくれず颯爽と旅発つ場面は、思い出すだに小気味好くかっこいい。幕を降ろすのにふさわしい場面である。なのに、なぜ、取り残された惨めな多賀次郎の独白シーンが、その後に続くのか。戯曲を読んだときは違和感があったが、舞台を観て首肯した。そうか、「その手にゃ乗らん」かと。
紋の終幕での決めゼリフにも、声としては出てこなくても、「その手にゃ乗らん」がしっかりとくっついている。
「でも、棄てられたら、棄てられたふりして、棄てかえせって!」「わたしたちは棄てられたんです。ですから……棄てさせていただくんです」「あなたなんか、初めっからちっとも好きじゃなかったって!」
これらは、多賀次郎に向かって発した言葉ではあるが、多賀次郎だけではなく、彼が背負って、しがみつこうとしている「国家」に対してへの決別宣言でもある。実際、多賀次郎は日の丸や「御真影」など国家のシンボルを身体中に巻きつけぶら下げて、紋たちの前に現れすがりつく。
その姿を見た紋は、「その手にゃ乗らん」と暗々裏につぶやいて、あれらのセリフを発したのであろう。というのも、国家を口実に、国家に寄生し隠れ蓑にして、娼館の経営を正当化していたのが、多賀次郎たちの本性だったからである。国家を前面に持ち出すことで、後ろめたさや多少の罪悪感、背徳心を糊塗していたと言ってもいい。その国家に切り棄てられたこの期に及んでもまだ国家を引きずって私たちを巻き込むつもりか、「その手にゃ乗らん」サヨナラと。
「島」出身で、中国大陸で青春時代を過ごした研さんは、「国家」に対して常に対岸からの視点を持ち、懐疑的であった。「明色の生感覚」のエッセイ末尾で、研さんは「本土が好きではない、ほんとうはナメているのである」と締めている。「本土」は「国家」と同義。紋の決めゼリフと見事に重なっている。
(『季刊青年座通信』2020春・夏合併号/2020年7月22日)
第3回
『ピースメーカー』と松本昌次さん
和田悌二
先日みなさん(かわさきおやこ劇場連絡協議会会員の方がた)がご覧になったD・ホールマンさんの『ピースメーカー』。実は、この作品と、昨年亡くなった「戦後編集者」で伊藤巴子さんのかけがえのない同志、みなさんもよくご存じの松本昌次さんには、共通点、というか大事なキーワードがあるのです。
それは、「カーニバル」です。そのことについて、少しご紹介させていただきます。
松本さんが、昨年初めに出した最後の本(遺著)『いま、言わねば』の表紙の絵は、フランスの画家アンリ・ルソーの『カーニヴァルの夕べ』です。これは、松本さんからの指示でした。松本さんは、この本が自身の最後の本になることを自覚していました。表紙といえば、本の顔です。では、自分の最後の本、唯一無二の大切な本の表紙に、松本さんはなぜあえてこの絵を使いたかったのでしょうか。実は、この絵は松本さんが最も敬愛し尊崇していた作家・花田清輝さんのお気に入りの作品で、花田さんは自宅の応接間にこの絵の模造画を飾っていたくらいです。
松本さんは、一昨年の初冬、自身の寿命を悟られたかのようにわたしと同僚の大道さんを呼び出し、「遺言」を伝えました。その「遺言」とは、「魯迅、ブレヒト、花田清輝」の3語。「魯迅の民衆への愛」「ブレヒトの資本主義への対決」「花田清輝の芸術への姿勢」――松本さんは、つまるところここに行き着いたのです。90何年間の得難い、比肩できないほど充実した人生航路の結果、「魯迅、ブレヒト、花田清輝」の3語をわたしたちに遺したのです。
松本さんが遺した「魯迅、ブレヒト、花田清輝」を思い切って一言のもとに裁断するならば、それは「革命」という言葉に集約されます(とわたしは確信します)。「革命」というと、何かおどろおどろしいものと思うかもしれません。歴史上の言葉で、なおかつすこぶる政治的、左翼的な概念で、わたしたちの日常とはほんの少しも関わりがない、むしろ関わりたくない、と。それも宜なるかなです。何しろ「革命」=「天命を革(改)める」のですから、血も見るだろうし、場合によってはかけがえのない命までなくすかもしれないし、とてもそう簡単に実行できるものでも、受け入れられるものでもありません。
ただ、その「革命」は英語でいうと「レボリューション(revolution)」。元々は「回転する」、上と下がひっくり返る意です。上と下がひっくり返る――夫との関係がひっくり返る、姑との関わりがひっくり返る、上司との立場がひっくり返る……これならば「革命」も……。そうです。それも「革命」です。そして、これこそが、先の花田清輝さんがルソーの『カーニヴァルの夕べ』を毎日眺めたいほど気に入っていた理由でした。
「道化祭(カーニヴァル)においては、上のものが下になり、下のものが上になる。それは革命以外のなにものでもない。ルソーは、二十世紀における芸術革命の先駆者だったのです」(「アンリ・ルソーの素朴さ」『アトリエ』1952年6月号、『戦後文学エッセイ選 花田清輝集』影書房刊他所収)
花田さんの文章の一節です。後半部分は少し説明が必要でしょう。当時、ルソーの絵は幼稚で拙劣とみなされて嘲笑の的でした。そのため、アンデパンダン(無審査展)などでは、一番目立たない会場の隅っこに展示されることが多かったのです。ところが、意外なことに見物人たちはモネなどの人気画家の作品を差し置き、必死になってルソーの絵を隅々まで探しまくり、やっと見つけては会場を揺るがすほどの大笑いをしたとのことです。このことを、いわば蔑まれながらも圧倒的な人気を博した、つまりは下のものが上になる=「(芸術)革命の先駆者だった」と言っているのです。実際、その後、ルソーはピカソなどによって大きな評価を得て、絵画史に残る画家となったことはみなさんご存じのとおりです。
松本さんは、花田さんに最も近い編集者として、また信奉者として、だからこそ「革命」の継承を込めて自身の遺著の表紙にルソーの『カーニヴァルの夕べ』を指定したのです。
ちなみに、東京・両国に自主企画演劇を推進する「シアターχ(カイ)」という劇場がありますが、その劇場の芸術監督の上田美佐子さんは、「もうそろそろブレヒトを革命からかいほうしてやらねば」というあの蜷川幸雄の発言を新聞で見て憤然とし、「ブレヒト的ブレヒト演劇祭」というのを15年以上前に企画したことがあります。その企画(「ブレヒト的」とは)について上田さんは、次のように書いています。
「ブレヒトや魯迅や花田清輝が立っていた淵の同じ淵に立つとはどういうことかを考察、確認するというもの」(「『ブレヒト的ブレヒト演劇祭』ブレヒト・魯迅・花田清輝と歩く」『新日本文学』2003年9・10月合併号、『曠野と演劇』港の人刊所収)
「淵」の背後は崖か谷底で、破滅しかありません。そのギリギリのところに覚悟を持って立って、現況での「淵」を人びとに差し示しながらこれ以上の転落・破滅を食い止める、下のものをより下に落とすのではなく、なんとか上に持っていく術(=革命)を演劇を通して考え試みようと、三人の名を出して呼びかけているのです。
そこで、『ピースメーカー』です。
もう、皆さんご存じのように、この『ピースメーカー』の舞台は、カーニバル前夜、つまりは花田清輝さんや松本さん流に言えば、「革命前夜」の出来事です。
「カーニバル」と言えば、わたしたちが真っ先に思い浮かべるのがブラジルの「リオのカーニバル」。ブラジル全土からやって来た男女が思い思いの扮装をしながら、半裸に近い格好で街並みを踊りまくり、練り歩きます。それは、「カーニバル」の時期だけはいくら羽目を外して乱痴気騒ぎをしてもよく、仮面をかぶって上下の関係を断つのが許されているからです。そのことからもわかるように、もともとは今まで通りの社会や日常を転倒させるパフォーマンスが「カーニバル」なのです。著名な英国の文化人類学者ヴィクター・ターナーは、「カーニバル」をかつては「地位転倒の儀礼」と呼び、「謝肉祭(カーニバル)は集団や社会が自らを見つめなおすときであり、社会全体で反省する作用を持っていた」と言っています。
ですので、ホールマンさんが、このドラマが展開されていた時間を「カーニバル前夜」としたのは、決して偶然でも、無意識でもないと思うのです。明らかに、意図していたと思います。シンプの最後の台詞――「だって、これはゆうべ(「カーニバル前夜」=「革命前夜」)のことなんだもの。これから先がどうなるかは、あなたが話してくれるでしょ」は、この「カーニバル前夜」=「革命前夜」を頭に入れて聞くと、いろいろな意味を持って広がっていくし、身近なことから先のことまで様々なことを想像させるでしょう。
伊藤巴子さんが生前、事前交流会でいみじくも語ったように、「壁」はいろいろなところにあるし、あちこちにいっぱいあります。このドラマの子どもたちのように、ある必然性を持ってその一つ一つの「壁」を壊していくのは、そのまま「革命」です。「レボリューション(revolution)」――下に位置していた子どもたちが、上に位置している大人たちを出し抜いて、無意味な、しかし当たり前と思っていた牢固な「壁」を壊していく。しかもその動機が、「下のものが上になる」「下のものが上になって一つの回転をつくる」ジャグリングと、そして本来は関係性が次々と入れ替わるダンスの上達のためになのですから、ホールマンさんの狙いがわかります。
松本さんは、みなさん方の「おやこ劇場」の運動に、限りない希望と未来を託していました。「僕でできることは、なんでもやる。これが、僕の最後の仕事です」とよく言っていました。その松本さんが遺著にまで託した「カーニバル」への思いが、今度の『ピースメーカー』の背景、されど重要な背景、暗喩として展開されていたことは、わたしにはとても偶然とは思えませんでした。
この意義深い劇場運動を発展拡大させていくために、どうぞ目の前の「壁」を壊して、見知らぬ隣人たちに声をかけていってください。
「あなたのジャグリング(子育て)を、わたしたちに見せてください。一緒に(共育)ダンスを踊りましょう。だって、明日はカーニバルなのですから!」と。
(「かわさきおやこ劇場連絡協議会」/2020年1月23日)
第2回
自然災害を「自己責任」に帰して政府を免罪する
見当違いの10月17日の「天声人語」
和田悌二
一読して、怒りに震えた。本日(10月17日)の朝日新聞の「天声人語」。谷崎潤一郎の災害描写の文章がいかに名文かを、権威づけのためか三島由紀夫の賛美を添えて紹介した後、「描写が生々しいのは、谷崎が1938年の『阪神大水害』を目の当たりにしたからだ」と続く。ここまでのおかど違いのエセ文学趣味、衒学趣味だけでもイヤラシイのだが、呆れるのはこの後の後半部分。一つずつ反論していく。
「阪神大水害から八十余年、わが国の防災インフラは進化した」――果たしてそうか。80年も経てば経済や科学の水準・基礎指標が違う(「発展」している)のだから、「防災インフラ」もある程度は「進化」して当たり前だ。問題は、その80年経った現在の状況下で、生命を守るという観点から見て「防災インフラ」がそれに見合うだけのものになっているのかどうかである。それは、国家予算ひとつとってみても、昨日の東京新聞のコラムで斎藤美奈子氏が指摘したように、「一九年度の防衛予算は過去最高の五兆二千六百億円」それに比して「防災関係予算は一兆三千五百億円、前年度の補正予算をあわせても二兆四千億円だ。防衛予算のたった半分」という数字が証明しているごとく、不十分で不適当・不均衡なのは明らかだ。天声人語氏のように、決して単純に肯定的に「進化した」と言及できるものではない。
「住民がそれらを生かす方法も着実に浸透してきた」――これは、ややもすれば「自己責任」に帰す論理になりかねない。そもそも「それら」とは何を指すのか。「防災インフラ」等を含めた災害情報全般を指すのだとしたら、いわゆる「情報弱者」の視点が決定的に欠けている。地方に住むお年寄りの方たちにとっては、パソコンやスマートホンによる地域限定情報等はまだまだ縁遠いものである。必ずしも「住民……に浸透してきた」と言い切れるものではない。また、たとえ「浸透してきた」からといって、「住民」一人ひとりではどうしようもない場合が多々あるのが大きな自然災害ではないか。
「それでも日本が日本の位置にある限り、台風の襲来を防ぐすべは今後もない」――これは完全な詐術である。今回でもそうだが、一番の問題は「台風の襲来を防ぐすべは」ではなく、「台風の襲来による大きな被害を防ぐすべは」であり、ゆえに「今後もない」とは決して言い切れないのであり、大きな被害を防ぐために政治の力を働かせなければならない、となってくるはずである。「防ぐすべは今後もない」とすれば、政治への免罪符にもなり、ひいてはそのために個人個人の災害に備える対処や意識が何よりも物を言うとなって、被害に遭うのはそれが欠けていたことによる「自己責任」ということになってしまう。
実際、天声人語氏はこの後、「『常ニ備ヘヨ』……児童らの命を奪った水害から得た教訓だ。……災害列島を生きる私たちへのメッセージが凝縮されている」と、問題はあくまでもわたしたち個人の「備ヘ」であると結論づけている。今回の強い台風や先の東北大地震・津波を見てもわかるように、いくら個人が「備ヘ」てもどうしようもないのが大災害であり、最も「備ヘ」るべきはまちがいなく政治、つまりは例外なく一人ひとりすべての生命を守るべき政府のはずである。
本日の「天声人語」の、この「自己責任」の臭いをプンプンさせている文章によって、一番喜ぶのは誰か。それは間違いなく、責任逃れを援助された安倍晋三をはじめとした政治家たちである。では、この文章で一番口惜しく、やるせないまでの腹立たしさを覚えるのは。もちろん、今度の台風の被害者たちとその周辺の人たち、そしてできる限りの「備へ」をしながらも、政治の無策と偏頗、貧困のために如何ともしがたい恐怖を味わい続けた多くの人びとである。
朝日新聞と天声人語氏は、堅牢なビルの絶対安全地帯から結果的に政府擁護の物言いをしていることに気づいて、当たり前の想像力と、個一人ひとりの痛みへのまっとうな共感力を身につけるべきである。それにしても、「天声人語」氏は、この被災状況下でいったい誰に「常ニ備ヘヨ」(戦時中によく使われた言葉)と今さらのように言いたかったのか、ほんとうに理解に苦しむ。
2019年10月17日
第1回
松本さんの「最後の本」について
和田悌二、大道万里子
二〇一九年一月十五日昼前、松本昌次さんは息を引き取った。
松本さんが最後の入院をしたのは、その三日前の十二日の夜。「これから入院する」と本人から直接電話があり、救急車で運ばれた。
翌十三日、病院に行き、本書の表紙見本をお見せした。すでに言葉は聞き取りにくかったが、喜んでいるのだけはわかった。とにかく、この本のことが気がかりらしく、しきりに本書のあれこれについて、細かいことまで思いつくまま、断片的にだが話そうとする。なかでも、「まえがき」「あとがき」はもう口述でも無理なこと、そのときのためにあらかじめ決めておいたようにしてほしい旨、後はすべて任せるとじれったそうにくり返した。
次の日の十四日、亡くなる前日も病室を訪ねた。生体情報モニタが設置されたナースステーションに近い部屋に移されていたが、前日よりは落ち着いているように見受けられた。念のために録音テープとメモを持参したが、やはり少し話すとすぐに疲れて、まとまった話は無理だった。その状態でもはっきりと口にしたのは、「この本を頼む」ということと、「友人たちに心からお礼を申しあげたい」ということだった。帰りぎわの「また伺います」に、「ぼくに〝また〟はないよ。ありがとう」――これがわたしたちが耳にした松本さんの最後の言葉になった。
*
本書刊行の経緯は次のとおりである。
松本さんが亡くなるちょうど一カ月前の二〇一八年十二月十五日、「最後の本」をつくりたいとの連絡があり、ご自宅に伺った。そこで、収録予定のほとんどの原稿とともに、本書の構成・目次立てや書名から体裁・仕様、発行部数、定価、販売方法に至るまで、こと細かい指示が書かれたメモを渡された。
収録原稿は、基本的には二〇一三年から二〇一七年までに『レイバーネット』『ほっととーく』『9条連ニュース』に書かれたものの中から選んでほしいこと、体裁はとにかく簡素に、並製でカバーもオビもつけずに表紙のみにすること、ただし表紙にはルソーの『カーニヴァルの夕べ』を入れたい、ページ数は二百ページ以内におさめること、などなど、あの独特の丁寧なやさしい文字でびっしりと書き込まれていた。
このメモをいただいて、ほとんどはその指示のままに進めようと思ったが、一つだけどうしても引っかかった。書名である。松本さんならではの「戦後」も「編集者」も入っていなかったのである。
特に「戦後」は、松本さんと切り離すことはできない。松本さんのこだわる「戦後」には三つの意味がある。一つは、「戦後の継続」。つまりは二度と戦争をしない(「起こさない」はもちろん)ということ。いかなる理由や状況下であろうとも、いったん戦争をすれば、そのときから「戦後」は終わってしまう。戦争は絶対悪である。二つ目は、「戦後精神」。天皇(制)の呪縛と国家の抑圧からの解放による、個の確立をはじめとした、人権、平等、自由、民主主義などを優先し尊重する精神のあり方である。松本さんは、編集者として戦後文学者や戦後思想家と伴走しながら、その精神をまるごと体現化したと言ってもいい。そして三つ目が「戦後責任」。この国に属する限り決して免れない、誰もが対峙し続けなければならない基本的な責務。にもかかわらず、マスメディアをはじめとした大勢はこの責務に鈍感で、いまだに直視しようとしない。それどころか、昨今は「取り返しのつかないことを」一切なかったことにしてしまおうという人でなし(モラルハザード)状態である。松本さんは、この破廉恥さ加減には、心底怒っていた。本書のどの文章も、すべてこの「戦後」から生まれたものと思っている。
そこで、二日後の十七日、以下のような手紙をお送りした。
今度の本については、構成立てから仕様まで、松本さんの基本案に異存はありませ ん。ただ、一つだけ、書名については、どうしても気になっております。(略)
わたしにとって松本さんは、やはり徹頭徹尾「戦後編集者」です。その「戦後編集者」を、今度のような「時事」に目をやった本だからこそ意識的に、今のこの国の危機的な惨状、負うべき歴史を彼方に追いやって恥じない社会状況下では、あえて入れていただきたいと強く思ってしまいます。個人的なことですが、わたしは松本さんによって「戦後」という言葉の大事さ、不可欠さ、意義を心の底から実感させられた者です。松本さんから「戦後」を切り離すことは、考えられません。
今度の内容を一通り再読させていただき、さらにこの思いを強くいたしました。松本さんの「簡素に、あっさりと、くどくどしくなく」というお気持ちは多少ともわかるつもりです。そのことも勘案しながら、いくつかの案を考えてみました。同封しますので、ご検討いただけますでしょうか。(以下略)
松本さんは、あっさりと聞き入れてくれた。その結果、新たに提案された書名が『いま、言わねば――戦後を生きて』だった。「戦後」が入っていたこともあり一度は了解したのだが、亡くなった今、最後までとことん「編集者」だった姿を間近で見続けた者としては、やはり「編集者」の語句は捨てがたく、無断で副題を「戦後編集者として」に改めさせていただくことにした。
前記の手紙を出した十日後の十二月二十七日、再びお会いし、追加の原稿とエピグラフの原稿に加えて、見返しの色に至るまでのさらなる詳細な指示書を手渡された。「まえがき」と「あとがき」は、最後に口述筆記でまとめるということになった。
年が明け、一月六日に本文のすべての組版を作り上げて初校ゲラを出し、翌日に電話を入れた。体調がかなり悪そうで、苦しそうにお話しになり、ついに酸素吸入をすることになったとのこと。
翌八日、昼前にお訪ねしたところ、かなり大きな酸素の機械を部屋に入れており、「まえがき」と「あとがき」は口述も難しいかもしれないので、万一のときはこれとこれにしてほしい(本書に掲載のもの)との指示を受けた。ただし、ゲラは最後まで目を通したいので、置いていってほしいという。迷ったが、「これだけが楽しみ」との一言に、ゲラをお渡しして手元に置いてもらうことにした。
その後、松本さんはできる限りそのゲラに目を通し続け、十二日の入院時も持って行ったとのこと。実際、最後の最後まで推敲し、鉛筆で書き込みを入れ続けた。その文字は、これまでの松本さんの字からは見たことのない、やっと判読できるような力のない筆跡であった。
*
本書は、文字どおり松本さんの「遺言」である。松本さんから「戦後」を託された書である。
実は、本書で松本さんの指示に従わなかったところが、もう一つある。本扉である。生前の松本さんなら決して許可しなかったであろうご自身の写真を、全面に入れさせていただいた。いなくなった今となっては、松本さんの「戦後」と常に向き合い続けるための「たが」がほしくなり、それをこの写真に担ってもらおうと思ったのである。
この写真をことあるごとに眺めながら、決してくじけず、簡単にあきらめず、自分たちにできるやり方で松本さんからの「戦後」を継承し、直視し、考え続けて、体現化できるよう努めていくつもりである。
2019年1月31日
(一葉社刊『いま、言わねば——戦後編集者として』所収)