最後まで「戦後編集者」を貫いた松本昌次さん
自身の余命を見つめながら書き続けた
無残なこの国の現況への異議申し立て!
いま、言わねば
戦後編集者として
◆ 著 者:松本昌次
◆ 発行:2019年3月
◆ サイズ:四六判
◆ ページ数:192ページ
◆ ISBN978-4-87196-076-2
◆ 定価:1,800円+税
■著者紹介■
松本昌次(まつもと・まさつぐ)
1927年10月、東京生まれ。高校教師等を経て、53年4月から83年5月まで未來社勤務。同年6月、影書房創業。2015年7月、同社を退く。その後も編集者として最後まであり続け、19年1月15日死去。享年91。
著書:『戦後編集者雑文抄―追憶の影』(一葉社・2016年)、『わたしの戦後出版史』(トランスビュー・2008年)、『戦後出版と編集者』(一葉社・2001年)、『戦後文学と編集者』(一葉社・1994年)、『ある編集者の作業日誌』(日本エディタースクール出版部・1979年)、『朝鮮の旅』(すずさわ書店・1975年)。
編書:『西谷能雄 本は志にあり』『庄幸司郎 たたかう戦後精神』(ともに日本経済評論社・2009年)、『戦後文学エッセイ選』全13巻(影書房・2005~2008年)など。
■内容紹介■
「わたしのこれまでの出版の仕事は、人と人との出会いだったと思います」
埴谷雄高、花田清輝、富士正晴、野間宏、杉浦明平、武田泰淳、竹内好、
平野謙、丸山眞男、藤田省三、木下順二、上野英信、井上光晴等の
名著の多くを手がけた伝説的な「戦後編集者」の遺言集――。
これまで戦後文学者や戦後思想家の伴走者として、
「戦後」を創造し先行し体現した上記の人たちの証言者、
いわば語り部に徹していた著者が、
今のこの国の惨憺たる現状に黙っていられず、
近づいてくる自身の寿命を見つめながら、
この破廉恥でモラルハザードな時々刻々の日本の状況に
平易な言葉で異議申し立てを述べ続ける。
このままでは死んでも死に切れないと、
まるでそれが「戦後」に生きた者としての
最大で不可欠な責任と使命であるかのように。
この全身編集者がこだわり続けた「戦後」の意味は、
「戦後の継続」「戦後精神」「戦後責任」の三つ。
一つ目の「戦後の継続」は、
二度と戦争をしない(「起こさない」はもちろん)ということ。
いかなる理由や状況下であろうとも、いったん戦争をすれば、
そのときから「戦後」は終わってしまう。
戦争は絶対悪である。
二つ目の「戦後精神」は、
天皇(制)の呪縛と国家の抑圧からの解放による、
個の確立をはじめとした、
人権、平等、自由、民主主義などを優先し尊重する精神のあり方である。
著者は、編集者として戦後文学者や戦後思想家と同時代を共にしながら、
その精神をまるごと体現化したと言ってもいい。
そして三つ目の「戦後責任」は、
この国に属する限り決して免れない、
誰もが対峙し続けなければならない基本的な責務。
にもかかわらず、この国のマスメディアをはじめとした大勢は
この責務に鈍感で、いまだに直視しようとしない。
本書のどの文章もすべてこの「戦後」から生まれ出たものである。
わたしたちは、著者が全身で訴えたこの「戦後」を継承するためにどうすべきか、
いかにあるべきか、それを根底から考えさせ見つめ直させる一冊である。
■本書「松本さんの『最後の本』について」より■
本書は、文字どおり松本さんの「遺言」である。松本さんから「戦後」を託された書である。
実は、本書で松本さんの指示に従わなかったところが、もう一つある。本扉である。生前の松本さんなら決して許可しなかったであろうご自身の写真を、全面的に入れさせていただいた。いなくなった今となっては、松本さんの「戦後」と常に向き合い続けるためのたががほしくなり、それをこの写真に担ってもらおうと思ったのである。
この写真をことあるごとに眺めながら、決してくじけず、簡単にあきらめず、自分たちにできるやり方で松本さんからの「戦後」を継承し、直視し、考え続けて、体現化できるよう努めていくつもりである。
■もくじ■
まえがきに代えて 〝アレ〟と〝コレ〟とは同根
Ⅰ
「天声人語」子にふたことみこと
「ハナハ/ハナハ/ハナハ/サク?」
村上春樹氏への違和感
〝意見広告〟への疑問
「非国民」の光栄
アメリカにはヘイトしない「在特会」
〝内なる天皇制〟について
真の歴史認識のために
春の嵐のなかで―袴田巌さん釈放
「ねじれ」とは何か
小さな兆候こそ
六九回目の敗戦記念の夏のおわりに
〝護憲と反原発〟―未来に進む両輪
〝衣の下に鎧〟が見える―イスラエルでの安倍首相
「私はシャルリー」にノー‼
アイヒマンと菅官房長官
不都合な過去を帳消しにする安倍首相の演説
ある日の新聞紙面から
〝オバマ米大統領広島演説〟批判
芸術作品としての日本国憲法―なかにし礼さんに学ぶ
Ⅱ
〝敗北〟は連続している
〝体験〟を普遍的な経験へ
〝風評〟がもたらすもの
自己批判能力について
万歳をなぜ拒否するか
埴谷雄高さんの〝非国民〟の生涯
無念なこと―吉本隆明さんの発言
『愛国行進曲』またふたたび
たった一人の民主主義
小さな町の大きな出来事
〝仇討ち〟に反対する
NHKに上がった抵抗の狼煙
「防災の日」に隠蔽されていること
〝壁〟と村上春樹氏の言動
渡辺清さんのこと
「橋下劇場」は終わっていない
わたしたちに問われていること
無差別殺戮と無知について
「須坂のレイチェル・カーソン」
ある裁判の判決への疑問
辞職劇と、ある悲哀と
戦没者を悼むとは何か
政治家のお金の集め方・使い方
トランプ劇場は茶番劇か
「事実は小説よりも奇なり」
巨大な忖度の塊
幕は下ろさせない
人権が言論に優先する
Ⅲ
自衛隊の〝国防軍〟化を嗤う―桐生悠々
戯曲『夕鶴』が問いかけたこと―木下順二
不滅の『谷中村滅亡史』―荒畑寒村
詩「四海波静」とは―茨木のり子
水俣、その一筋の道―土本典昭
植民地根性を批判しつづけて―富士正晴
「私が愛するのは友人」―ハンナ・アーレント
「人は獣に及ばず」―中野好夫
「一つの尺度」でしかモノを計らない人びとへ―鶴見俊輔
自力の健全なナショナリズムとは―竹内好
「外国に在る人々」に呈す―花田清輝
「憲法第九条をめぐる若干の考察」―丸山眞男
「裂け目の発見」―埴谷雄高
『汝の母を!』にこめられたもの―武田泰淳
陋劣な情念にとらわれて―上野英信
「松のことは松に習え」―藤田省三
ガリレイ・科学者の責任―ベルトルト・ブレヒト
凜とした人間として生きる―伊藤巴子
『希望』―目取真俊
あとがきに代えて 杖をつきながらエピローグを
松本さんの「最後の本」について